昭和48年5月30日 朝の御理解



 御理解第85節「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず母の乳をすぐに飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」と。

 大変難しいことだと思うですね、本当に、例えばお道の信心をしておる者でも、おぉ、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、といったようなおかげを頂いておる人が、どのくらいあるか、何人になるだろうかということ、ね、産前、身軽く、隣知らずの安産のおかげを受けておるという人がどのくらいあるだろうか、もうお産というものは、いわゆる、生みの苦しみというその、苦しみの生んだ、妊娠をしたらもうつわりというのは必ずあるもんだ、そして、そこに、いぃそういう、女の、まあ業といったようなものを感じです、ね、え~、最後のところに、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませろというところは、とても、これを、実際に行うて行けれるという人は、もう、そこまで神様を信じれる人はなかろうと思う、ね、えぇ、そういう例えば、大胆と言えば大胆、お任せしておると言えばお任せしておるというほど、それだけの、おかげを頂けたらです、「頭痛、血の道、虫気なし。」というほどしのおかげが受けられる、ね、同時に、「不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」と、ね、これは例えば、他の動物なんかは、みんなそうですよね、人間だけです、例えば産後を大事にするといったような、だから本当なことを教えておられるだけどその、本当なことが私共が、あの観念に災いされて、え~、痛まんで良いおかげを頂けれるのに痛んだり、苦しまんで良いのに、苦しんだりしておるようなことが、あるわけで、そこを私共は信心によって、それこそ「不浄、毒断ちなし。平日のとおり」というような、あぁ、心の状態を頂かせて頂くために信心の稽古をしておるということになります、これは勿論、女の特に、いぃ、(?)なった人に対する、これは御理解だったでしょうけども、この中に、潜んでおると言うか、中にあるこの一つの神事といったようなものをね、私は感じさしてもらう時に、大変な御理解だとこう思うです、ですから今日はそういうところを聞いて頂きたい、男だから女だからということではない、ね、妊娠しておる、しない、そんなことじゃない、私共が、あぁ例えば、良い物が生みなされる、昨日の御理解でしたね、あの、栗のお知らせやら、あの、ウニのあのジガジガ、ね、そこんところを頂き抜いたらね、中にはウニのような珍味があり、中には時期を待ったら、ね、自ずとその栗が割れて、中から(?)ような、あぁ、熟した、あぁ、栗が、飛び出してくるんだと、いうよなことを頂いて、私共がいっ、確かに良いものを頂く前提、本当に力を頂く前提、お徳を受ける前提、おかげを受ける前提と、必ず前提があるです、ね、言わばその前提のところを、大事にしなければならないということ、ね。
 私今朝方、もう、非常に長い間、(?)を頂いて、今まで知りっ、信心の世界、知り得なかった世界を、ははぁなるほどここはどういうことであろうかと思うておったようなことを、もう酷面にです、色んな、例えを持ってお知らせを頂いておりました、お夢を、そのお夢を頂いておる、そのお夢の伴奏のようにです、私の寝ておる小耳に響いてくる、伴奏がですがたい、昔ね、えぇ、「窓を開ければ港が見える」というような歌が流行りましたよね、色々青年時代に、「窓を開ければ、あぁ港が見える、(?)波戸場の日が見える」というような、たしか歌詞だったと思います、それは私が頂いておるお夢の、伴奏のように流れてくるんですよ、で私は目が覚めて、すぐ御祈念さしてもらってから感じたことなんですけども、窓を開けるということは、心の窓を開けるということだと思いましたね、いわゆる心に悟りを開くということ、窓を開くということ、信心は悟り、と言われておるように、悟りを開くということである、心の窓を開いてみるとです、もうすぐそこにね、(メリケン波戸場が?)見えておるんだと、私は(メリケン波戸場?)というのは、あの私は、無学で色々分かりませんけれども、あのメリケン粉のメリケンという風に感じました、言うならば、私共がままになる、言わば試食にも、おぉ、変わる、ものだと、言うならば、はとのメリケンが一遍積んである、それはそういう意味じゃないでしょうけれどね、あのそういう風に私は、あの、おぉ、感じました、勿論港のことですから、そこに大きな船も、おぉ、そこに寄港しておることだろうとこう思うです、ね、ですから私共が心の窓を開けてそこまで行けばままになるおかげを頂くだけではなくてです、お徳という船にも乗れれる、道がチャット開けてくるんだということ、心の窓を開かなければいけない、ね。
 昨日、テレビを見せて頂いておりましたら、あの、わかっ、若殿様、まだ若いまだ十代の殿様なんです、それがその、将軍から呼び出されて、将軍様にお会いせにゃきゃならんわけです、それで自分のお付きの、その、(?)人に、どういう気持ちでその、(?)したら良いかと、まあ胸がどきどきして、もうその、そういう偉い人に合うのですから、え~、その、え~、作法の事一つでも間違えてはならない、どういう気持ちでその、引接したら良いかと言うて尋ねてるんです、したら(?)が言うことがね、「あの、(?)と思いなさいって、相手を、かぼちゃと思いなさい」っち言うわけです、私は昔、婦人、ある婦人会の、この辺を代表して、東京までも、あの、お~、婦人会の(?)に行かれた方があったです、代表で、そん方はもう大変、もう口から先ん生まれたごと、おお、お話しが上手な方でした、その人がそのもう、どっか(?)かなんかでもう、それこそ沢山の人を前にして、その、まあ、とうとうとまあ自分の意見を発表されたんです、そのここ辺の筑後地区から代表で行かれた方なんです、(?)が、その方が、もう私に話されたのにですね、私共と人にお話しをしなければならない、だからそのお話しをするコツ合いというものをですね、あの、「とにかくあの大根畑でお話しをしよると思いなさい」と、「もう前にズラーッとならんどっとはもう大根です、もう人間じゃなか、もう本当に大根畑で一人で、話しておると思うたら、どっちもおくせき事もありません、先生お話しをするっちそういう心掛けがいりますよ」と言うわけなんです、ね、なるほどだからそれもそうでしょうね、だから話し付けますと度胸が出ける、もう前にならんどっとはもう、その、それこそボウフラんごと思うとる、大根畑、大根のごと思うとる、ね、「不浄、毒断ちなし。平日のとおり」ということはそういう意味もあるのです、ね、例えば不浄があっても毒があってもです、平日のとおりという、心に一つのゆとりを持っておりますとです、安心を持っておりますと、それが毒にも、言わば、あ~、不浄にもならないという、一つの、おぉ、理があるわけです、ね、私はあの、親鸞衆なんかは、それに良く似ておるところがあると思うですね、例えば、あぁ、他の仏教では、精進、(なまくさけ?)をとったり、いわゆる、う~、(?)様なんかは特に、妻帯をしないといったような、あぁ、厳しい、掟と言うか、あぁそういう、うぅ、五戒と、ね、そのそういう、(?)の中に、信心を進めていくという生き方、ほとんどであるのに対してです、親鸞聖人は、ね、そうではなかった、もうそれこそナマクサケを食べても、妻帯をしても、ね、えぇ、仏様は守って下さるんだという、う~、風に説いたわけです、ね、それは丁度今日私が言う、相手をかぼちゃと思うたり、大根畑で話しよる心が、平日のとおりになる、そこに確かに、おかげの受けられる道が開けてくる事実があります、ところがです、教祖金光大神様の道はそうじゃないです、私が皆さんにこうやってお話をさして頂くのに、もうそれは本当にそうです、もう沢山であればあるほど力が出ます、お話しさして頂くと、もうなら御大祭の時に、ここから(?)いっぱいあればあるほど、お話しはしよいものです、それは大根畑とも思わなければ、皆さんをボウフラとも思ってはいない、けれども私が頂いておる信心、私が頂いておるおかげを一人でも多くの人に聞いて頂きたいという熱情がね、私をそう借り立てるのです、決して皆さんをかぼちゃとも思わなければ、大根とも思わない、それでもおはなっ、それこそ自分の心の中にあるものを、みんな、言うなら、(おめずおくせず?)、お話をすることが出来る、意味が大分違うでしょう、ね、結果においては、それはなるほど、平日のとおりかも知れません、平気でおれれると、ね、けれどもその内容が違うのです、ね、いわゆる、人間を、なら見るのに、ボウフラと見らずに、かぼちゃと見らずにです、ね、やはり神の氏子として、この世に生をを受けながら、難儀苦労をしておるということがです、私もそうであった、同じ神の子として生まれながら、難儀苦労してきた、それには自分の心の窓が、開けていなかったからだと分かった、そこで心の眼を開かして頂いて、それこそメリケンじゃないけれどもね、言うなら、ままになるおかげを頂いて、私が徳の船に乗っておるかどうかは知らんけれども、その徳の船に乗らせて頂くことを、唯一の信心の願いとして、お徳を受けていくことを一つの願いとして、おかげを頂いておるのですから、そのことを、皆さんに聞いてもろうて、私が頂いておるような喜びを私が頂いておるようなおかげを皆さんにも頂いてもらいたいと思うから、そっ、それが信心の熱情となってくるから、こと走るように、私はお話しが出てくるんだと自分で思うとります、ね、違うでしょ、かぼちゃと思うて練習する、かぼちゃと、相手はかぼちゃと思うて、ね、だからそこにきに例えば、親鸞衆と、おぉ金光教の例えば違い、他の宗教と、または金光教の違いを感じます。
 教祖様も、なるほど、おぉ、わが心で、不浄を祓うこともありゃ犯すこともあると仰っておられるのも、まあこの辺に良く似ております、自分な悪いことだと思うておった、ことをです、ね、それを御事柄として、受ける時に、それは有り難いものになるといったような頂き方もです、やはり、ここんところに通じます、まあ金光教の信心にも、それもやはり、一つの手とも、申しましょうかね、おかげを頂いていく一つの手段としてはです、そういう道を辿らなければならん時もあります、けれども、金光様の御信心は、どこまでもですね、どこまでも、天地の大恩を分からしてもらい、天地の大恩に報い奉るという、実意丁寧神信心が、根本にならなければならないということです、金光様の御信心は、私は今日そのことを思い、今日は、丁度具体的にお夢の中に頂いたんです、どうでもやはり天地の大恩を知れば子孫も続くといったような御理解がありますように、天地の大恩を本当に分かるところから、その天地の大恩に、報い奉る信心です、ね、そこに神恩報謝の心というところん中にはです、例えば方言的に相手をかぼちゃと見て、自分の心を安らがせようといったようなもんじゃなくてです、自分が実意丁寧神信心しておるから、自ずと自分の心の中に安心が生まれてくる、平日のとおりのおかげが受けられるという、おかげが教祖金光大神の世界です、ね、いわゆる金光大神の世界は違うのです。
 昨日私は、あぁ阿倍野の教会の、この春の大祭の御直会の、小さい冊子を、を、見せて頂きました、だから、あの、阿倍野あたりにどうしてああいう大変な御ひれいが輝くだろうかとこう思うんです、毎月御本部参拝は二列車、どうしてそれだけ、しかも、女の先生、で、そらならお話しがなら上手といったような感じもしない、ん、けれども、人が助かっておるという事実は、間違いないことなんです、それにですね、もう、先生の御教話というのを、読ませて頂くと、共通する点があるです、お話しの中に、というのはどういうことかと言うと、例えば、去年、五年っ、あぁ五十年の記念祭を仕えておられます、その五十年を仕えさえ、され、仕えられた、もうそのすぐ直後にです、ね、その反省会を開いて、反省会を開いて、そして次の五十五年の記念祭に向かう信心というものを打ち出しておられます、記念祭が終わったからやれやれじゃなくてです、もう終わった途端にです、五十五年の記念祭をいかに仕えるかということを、信者を図っておられます、いわゆる、そしてね、あいっ、その、「阿倍野教会の次の五十五年の記念祭がこの五十年の記念祭よりもより賑やかに、より立派に仕えられるようなことを、一生懸命願いなさい、その願いが成就した時には、あなたも助かり、あなたのお家も助かる」とこう言っておられます、ここですね、あのような御ひれいは、の元をそういう風に昨日は私は、あぁその御本を読まして頂いて感じました、ね。
 先日、え~、久留米のオカダキさんが、御心眼を頂いておられます、猿カニ合戦の模様を頂かれて、そしてある先生に、お猿さんが、あのおにぎりと返るところがあるでしょ、カニと、あのおにぎりを阿部先生が頂いておられるところを頂いた、ね、だからね、ならお道のせっ、教師させっ、がですよ、私共がです、ただままになると、自分がため、自分が食べらっ、食べるために、自分の一家が、生業が、はいが立って行くために、自分の生活のためにです、一生懸命修行をしておかげを頂くという人もそりゃ、ありは、ありましょうけれどもです、私がここで皆さんに聞いて頂いておるのは、ね、五つの願いです、この五つの願いが例えば成就するということはです、ね、私が、生活が安定するためとか、私がままになるためではなくて、私がまずは安定しなければならない、まずはままにならなければならないけれども、それがね、限りなく頂かしてもらってです、ね、人が助かることのために、自分がままにならなきゃならないというのですよ、ね、あなたが助かるのも、あなたの店が繁盛するのも、天地の親神様の、言うなら願いにお答えが出けることのために、繁盛さして下さいという願いじゃなからにゃいけんです、ただ自分が(?)だけ貰ときゃそれでええというのじゃいかんっち思う、ね、自分が助かるということじゃない。
 ●私はその、今朝からお夢頂いておるお夢の中に、もうそれは偉大なガラス張りの上です、そこにはもうぽっぽつするように沢山のご飯が出けておるわけ、ところがですね、そこは丁度、あの~、熱さと申しますかね、あのぉ、熱いに砂漠という感じです、してそこにはもう何時も、その~、それこそ黄塵万丈といったような、その風が吹いておる、ね、黄塵万丈というのはしなの言葉です、もうそれこそこれだけはもう文字通りですね、あの、しなっ、こくしあたりで吹く風は、この頃からも、あちらの向っこうの方から吹いてきた風が、(?)にやってきた、で、ここで薄曇しとった時があったでしょ、家ん中がざくざくなったでしょ、ああいう風が吹くんです、ね、ガラス張りの大きな家の中に、沢山のご飯がままになっておるけれどもです、いやまあぁ、出けておるけれどもです、これを持って行ってやるということが、その風の合間合間に持って行ってやらんなんということが非常に至難だと、持って行きよる途中で風が吹いたらもう、そのご飯は食べられんようになるのだと、ほこりのために、だからここに取りに来てもらえばそれが一番良いのだけれどもといったようなお夢である、ガラス張りということは、ならここの場合なら経理なんかの場合はもう、もうそれこそ一目瞭然に、私よりも例えばなら久富さん辺りの方が詳しいです、今合楽にどれだけのお金があって、毎日どれだけのお初穂がありよるっちいうことは、私よりも返って皆さんの方が詳しいぐらいです、言わばガラス張りなんです、これだけちっとあたり、俺が貯めとこうといったようなことがこれから先もないということです、ガラス張りということはそういうことだと私は思うた、合楽教会の点前です、中ではですね沢山のご飯が出来よる、いわゆる皆がままになるおかげの頂けれる、ところがです、皆さんがここで持って帰る途中でです、もう食べられんごとなしてしまいよるという感じがいたします、ね、そして同時にここではもう沢山な残飯が出来よる、もう勿体無いことだと私が思いよるところでした、毎日毎日残飯が沢山また、お土に返さんならんといったような感じなんです、はぁこれだけのうんなら沢山のおかげの元、ままになる元というのが出来よるのを、これが本当にです、なんとかお互いが、あの、ほこりを被らんような、在り方を目指さしてもろうて、皆が沢山の人がままになるおかげを頂いたら、どんなにか有り難いことになるだろうか、天地の親神様もどんなにか、お喜び下さるだろうかというようなお夢でした、そういうお夢の中に、伴奏として流れてくるのが、あの、「窓を開ければ・・」ということでした、ね、ですから信心してまずは心の窓を開かなければならない、そして目の前に見えておる、言わばメリケン波戸場に行かなければならない、そしてそこに(?)と大きく浮かんでおる、言うならば、あぁ船に乗らせて頂くところまで、船は御神徳、御神徳の船に乗らせて頂かしてもらうところまで行けなければいけないということなんです、ね、そういうおかげを頂くためにはです、ただ、ね、言うならばその、受け方頂き方にです、例えば人間をボウフラと見るというところから、平穏な心と言うか、あぁ~、不浄、毒断ち、平日のとおりというような心にもなれるのだけれども、それでは、しかしお徳は受けられないということ、ただ自分がままになるということだけなら、良いかも知れません、けれども自分がままになるということは、人もまたままになることのためにままになると、自分が力が欲しいと思うけれども、ね、なら人の難儀でも、持ってやれれるだけの力、そういうおかげを頂くために、どうぞ神様力を与えて下さいというのでなからにゃいけんと、商売大繁盛を願うこともいい、ね、五つの願いはそうでしょ、(テープの調子がおかしい)
願う、けれどもそれは本当の真実の御用が出来ますことのために、天候も、ね、財産作りも、ね、または家庭の円満もです、ね、真実の御用が出来ますことのために、ね、神願成就のことの御用にでも、つっ、お使い回しが頂けることのために、五つの願いをしなければならない、というのです、ね、そういう信心をしかも、実意丁寧神信心、これが生神金光大神の世界である、その実意丁寧神信心の中から生まれてくるところの安心、これは相手をかぼちゃと見るのではなくてです、ね、相手を神様と見らせて頂いて、そこから生まれてくるところの平日のとおりというおかげ、少し複雑になりましたですかねお話しが、まぁだ今日は、それこそ沢山頂いておることですけども、これはもう大変また難しいことです、だから折々、い~、お話を、新しい一つの信心の分野とでもいうようなところをね、今日は頂いたような感じがするんですけれども。
 今日は私、この85節を頂いてです、これは「女の身の上、月役、妊娠、」といったようなことだけではなくてです、私共の上に起きて来る様々な、難儀というもの、それがあぁ~、良いものが生みなされることための前提である、ね、そういう前提ということを昨日は、あの、(?)ジガジガするような中に、というような根があるんだという風に、頂いたんですけれどもです、ね、ここんとこ段々頂いて、実意丁寧神信心さして頂いておる内に、ジガジガもなくなる、ね、言うならば難儀、困ったといったようなこともなっ、なくなるほどしの、おかげを頂いて、今日のこことこのね、え~、不浄、毒断ちなし、平日のとおりという心の状態もまた、おかげも受けられるようになってくるという、ことをまあ聞いて頂いたんですね。
 どうぞ一つ、まずは、お話しを頂いて、まずは心の窓を開かなければいけません、ね、心の窓が閉め切っておるところに暗い、暗いところに、良い事が行われるはずはありません、心の窓を開く時に、心が明るうなる、ね、そこにまた、新たに生めてはならないもの、取り除かなければならないものもはっきりしてくる、ね、そしてメリケン波戸場に近付かなきゃならない、そしてそこに付いておる大きなお徳の船にも、乗せてもらえるだけのおかげを頂かなければならない、本当に、ん~、合楽の、お~、例えば、え~、信心の中に、い~、親鸞的なものが、随分あります、けれどもこれは一つの信心の過程でありましてね、過程でありまして、段々おかげを頂いていったら、今日お話しいたしました、親鸞的なですよ、ね、ですから、あの~、どんな悪い事でも御の字を付けられる、例えて言うなら、あのおかげだって(?)な生き方、これが正しい、おかげを頂いて行くための一つの方便でありましてね、本当は教祖金光大神が辿られた、いわゆる実意丁寧神信心、そこから生まれてくるところの、平日のとおり、平穏無事の心というのを頂かしてもろうて、ままになる、同時にお徳を受けていくというのが、金光教の信心であり、金光大神の世界に私共は住むということは、そういう信心を辿らせて頂かなければ、出来ないように思うですね。
                                   どうぞ。

 同時に今の、阿倍野の、を~、お話しをいたしましたでしょ、これはもう糸簡単な、ことをですね、そういう風にもう実際に表現して、に行っておられるところにあのような御ヒレイがあるということを申しましたでしょ、ね、もう五年の記念祭がすんだら、次の五年、五年祭の、五っ、五十五年の記念祭のことの信心に取り組んでおられるんです、それを一人一人が一生懸命願えじゃん、教会に、その記念祭が今度は五十の記念祭にはもっと素晴らしい記念祭が出来ますようにと言うて、一生懸命願え、願えば自分も助かれ、五年の記念祭が出来る頃には、あなたの家も助かっとる、おかげ頂いとる、これをです、本当に実行しておられるわけです、だいたい言うとそこんとこです、今日の生粋のところはね、それは自分の事には力が入るけれども、教会の事には力を入れない、もうこの御用はせにゃんことは分かっとる、例えて言うなら、もうここが雨が漏る、漏って、もう何ヵ月間というてこうして難儀しとりましょ、パラパラ(?)降ったっちゃ漏るとですよ、それで誰んほっ、(?)かまわんでしょうが、あれがどうでしょうか、銘々の家だったら、さあ(?)でしょうばってんね、私もただ、それを、結局それが私の信心だと思うとるから平気で見てますけれどもです、ね、教会のことを本当に考えたら、例えばどうか早よせにゃおられないです、例えばなら、あの阿倍野辺りの場合はです、それが出けておるという感じです、信者さんが一人一人、教会のことを本気で願われる、ですから自分のことはもう本気で願うた、教会のおかげが成就する時には、自分のおかげも成就しておるという、感じです、ね、これが金光教の信心だと、ね、御用せんでん、お参りはせんでん、自分の心一つでおかげを頂くといったようなのは、やっぱり実を言うたら金光教的ではないですよね。


入力者:誠輝